四条烏丸
下京区烏丸通四条下ル、大経師(暦商)浜岡家跡
江戸時代中期の天和年間(1681〜1684)に、実際にあった事件です。暦商を営む浜岡権之助(のち意俊)の女房さん(当時19才)と手代の茂兵衛が下女たまの手引きによって密会を重ね、のち、駆け落ちし、3人は丹波国柏原挙田(アグタ)に隠れ住んだものの、天和3年(1683)8月9日、幕吏手下の者に見つけ出され捕縛連行されました。江戸時代の当時、不義密通は御法度、奉行所において詮議の末、獄に繋がれ、同年9月22日、市中引き回しの上、九条山西麓の粟田口処刑場において、さんと茂兵衛は磔、たまは獄門に処せられました。『諸式留帳』に「天和三年十一月 からす丸四条下る大きやうし(大経師)さん 茂兵衛 下女 右三人 町中御引渡し 粟田口にて 磔−さん 茂兵衛 獄門−下女たま」とあり、処刑ののち、5日間、ここで晒されています。
のちになって粟田口刑場跡からさんと茂兵衛の墓が発見され、山科区大塚西浦町の宝迎寺の墓地に移されました。左京区仁王門通東大路西入ル北門前町469の日蓮宗の寂光寺(もと中京区寺町通二条にありましたが、宝永5年<1708>の大火により類焼したため、現在地に移転)にも供養塔があり、伏見区深草宝塔寺山町にある日蓮宗の宝塔寺には「さん・茂兵衛の比翼塚」と伝える供養塔があります。
この事件に着目した浮世草子の作者の井原西鶴が貞享3年(1686)2月に『好色五人女』巻三「中段に見る暦屋物語」を刊行し、人形浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門が63才の時に『大経師昔暦』を書き正徳5年(1715)春に上演、おさん・茂兵衛の名は一躍世間に知られるようになりました。
※大経師−経巻や書画類を表装・表具を職とする元締めで、のち暦を扱い『大経師暦』を刊行しました。
※隠れ住んだ丹波国柏原挙田は、現在の兵庫県丹波市柏原町挙田という所で、この地の伝承では、茂兵衛の実家がこの近くの山田村(現在の春日町)にあり、2人は追手に気づき、旧但馬街道沿い付近の森に逃げ込み、桜の木の陰に身を潜めていたところ、さんが咳をしたため追手に見つけられ、捕られたといわれます。のちここに祠が建ち、「咳神さん」と呼ばれ、肺の病に効験があるとの信仰が生まれました。