第10回

京の平将門

案内:加納 進

平将門首掛けの公孫樹(たいらのまさかどのくびかけのいちょう)

鴨川に架かる四条橋の東詰(南座の南側)にあった公孫樹に、関東で討ちとった平将門の首が掛けられました。ところがその首は西へと飛んで左京五条三坊一ノ保(下京四条大路町尻小路西−現在の新釜座町)の空也道場に落ち、将門の首はここに晒されたと伝えられます。空也道場は、のちに訛って膏薬道場(こうやくどうじょう)と呼ばれました。新町通と西洞院通の間にある新釜座町の中ほどの細い南北の抜け路地を膏薬ノ辻子と呼ばれ、路地中央の折れ曲がった所に『神田明神』の小祠があります。 「平将門ノ首ヲ晒シタル所ナリ 」と添え書きしてあります。






神田神宮(かんだじんぐう)─天慶年間 平将門ノ首ヲ晒シタル所也─

下京区四条通新町西入ル下ル。新町通と西洞院通の中ほどの細い路地を南に約80m下った西側の民家の軒下にあります。神宮とはいっても、東京・神田にある神田神宮とは比較にならないぐらい小さな祠です。

ここは、古くから平将門の首を晒し、のち埋めた首塚と伝えられ、昔は、五輪の石塔が建っていたといいます。しかし、何故、この場所が将門の首塚と考えられるようになったのかといいますと、ここには、もともと踊躍念仏道場の空也道場があったからです。この道場で踊躍念仏を修行する僧を空也僧と呼び、空也僧の開祖が踊躍念仏を修行し、各地に広げた平定盛といわれます。 「空也上人伝説 」によると平定盛という人は猟師でしたが、鹿を殺したことの非を空也上人に諭され、殺生の罪を悔い改め、それからというもの上人の弟子となって念仏踊の修行をし、また、都の人々にも勧めて歩いたといいます。このことから定盛をのち空也踊躍念仏の祖と仰がれるようになります。一方、東国で反乱をおこした平将門を藤原秀郷と共に討った平貞盛と空也踊躍念仏の祖の平定盛の読みが同音であることから、この場所に貞盛が誅殺した将門の首を埋めたという作り話が出来たものと思われます 。

因に 、神田神宮のある抜け路地を室町時代のころには膏薬図子と呼ばれていましたが 、これは、踊躍念仏の空也道場があったからで“こうや”が訛って“こうやく”となったものです。別に“空也供養の寺”が訛ったからではないかともいわれます。膏薬図子は 、現在下京区四条通新町西入下ル新釜座町と表記されます 。

入力:高岡 良次  レイアウト:岡村 拓馬