第1回

安倍晴明とその子孫ゆかりの寺

案内:加納 進

真正極楽寺─真如堂  京都市左京区浄土寺真如町

真如堂宝物に『安倍晴明蘇生之図』という極彩色の大きな絵画と夏みかんぐらいの大きさの自然石に星型を陰刻した“五芒星の印判”があります。
これは、安倍晴明が冥界に赴き、閻魔王庁の王、閻魔大王から娑婆に帰ったなら衆生を救済することに使うようにと拝領した印鑑と印鑑を受取る場面をこの世に戻ってから晴明が絵師に描かせたのだといいます。
『安倍晴明蘇生之図』と『五芒星の印鑑』は、普段見ることはできませんが、CD-ROM『京都六道の辻伝説』に収録されています。
また、本堂内本尊阿弥陀如来像の向かって左側の不動明王像は、通称“長寿不動”と呼ばれ、安倍晴明の念持仏であったと伝えられます。

殺生石鎌倉地蔵(せっしょうせきかまくらじぞう)

真如堂の山門を入ってゆくと、まもなく右手に三重塔が見えます。その手前、つまり西側に地蔵堂が東に向いて建っていて、堂内には人の背丈ほどの石の地蔵菩薩像が祀られています。鎌倉地蔵と呼ばれ、下野国(しもつけのくに―現在の栃木県)那須野の殺生石で造られているというのです。殺生石というのは、もとは天竺(インド)・殷(中国)・日本と猛威をふるって暴れまわった妖怪の金毛白面九尾の狐が石と化したものといわれています。この妖怪狐は、天竺で乱暴狼藉の限りを尽くしたのち、中国に飛んで姐妃(だっき)に化けて殷の紂王(ちゅうおう)に取り入り、酒池肉林と色気で紂王を骨抜きにして一国を滅亡させてしまったといいます。
この妖怪狐は、日本海を一羽飛びして京都の宮中に入り込み右大臣藤原道春の妹、初花姫にのり移り、さらに玉藻前(たまものまえ)という美女に化けて鳥羽上皇に近づき、上皇の寵愛を受けるようになります。玉藻前にのり移った妖怪狐は、上皇の兄薄雲皇子と計らって天下をくつがえそうとしますが陰陽寮の陰陽頭(おんみょうのかみ)安倍泰親(あべのやすちか)に正体を見破られます。すると妖怪狐は、空高く舞い上がったかと思うと東の方へ飛んでゆき、下野国那須野ヶ原へ逃れました。
その後、この狐の仕業ではないかと思れる奇怪な出来事が幾度ともなく起こるようになります。このうわさを耳にした上皇は、上総介(かずさのすけ)と三浦介(みうらのすけ)という二人の武士に妖怪狐の退治を命じました。二人は、退治するにあたって神前に百日の行をおこない、満願の日に妖怪狐の退治が首尾よく成就するとのお告げを受け、奮い立って妖怪の住処へと出立しました。
二人は、妖怪狐を見つけ出し、上総介は、弓に矢をつがえて矢を放ち、妖怪狐を射抜き、待ち構えていた三浦介がとどめを刺して退治しました。
ところがその時、妖怪狐の魂が石と化したのです。やがてこの石は,悪霊となり近づいた生き物を全て殺すようになります。そのことから、「殺生石」と呼ばれ、人々から恐れられるようになります。このことを知った源(玄)翁心昭禅師(げんのうしんしょうぜんし)が、応永2年(1395)に斫杖(きりづえ−教化用の杖)で殺生石を叩き割り、二つに砕けた石の一つで地蔵菩薩を刻み、この石に殺された人々や他の生き物の霊を慰めるために鎌倉に地蔵堂を建てて祀りました。その後、慶長年間(1596〜1615)のころに慈眼大師(じげんだいし─天海)の弟(?)で甲良豊後守宗広(こうらぶんごのかみむねひろ)の夢枕に、この地蔵菩薩が現われ、「我を衆生済度の霊場真正極楽寺(真如堂)に移して祀れ」とのお告げを受けて、現在の場所に遷座したと伝えられます。「鎌倉地蔵」と名づけられたのは、長い間、鎌倉で祀られていたことに由来します。
無実の罪を着せられた人がこのお地蔵さんに祈ると濡衣が晴れるといわれ、また原因のわからない頭痛や心の病も平癒するといういい伝えがあります。
石割りなどに使う大きい鉄鎚(かなづち)を玄能(玄翁―げんのう)というのは、この伝説から名づけられたといわれます。

江戸時代以降の安倍家の墓所

境内の南に位置する真如堂墓地には江戸時代の中期安倍泰福の墓をはじめ安倍晴明の子孫、五十数名の墓があります。

※ 甲良豊後守宗広―江戸幕府作事方大棟梁。徳川家康に仕え、伏見城内の普請や吉田神社(京都市左京区)造営の棟梁として活躍し、その功績により、豊後守の称号を賜ります。のち江戸に赴き、増上寺三門・台徳院霊廟・江戸城天守閣、寛永11年(1634)に、日光東照宮などを手掛けました。

真正極楽寺(真如堂)  京都市左京区浄土寺真如町

入力:林 檎  レイアウト:岡村 拓馬